2013年06月27日

これで行く









  
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2010年02月22日

久しぶりのベイエリア

2002年以来、8年ぶりにカリフォルニア・ベイエリアを訪問した

その間、北米ではニューヨークに出かけたことはあったが西海岸には用がなかった。1年じゅう生活するにはライフスタイル、特にエンターテイメントに欠け、仕事の用でもない限り行くこと無いわ、の烙印を勝手に押して。

カリフォルニアという土地は、30年以上前、親に連れられて初めて旅した。この時はカリフォルニアである以前に「ディズニーランド」だった。まだ東京のディズニーランドも出来ていなかった頃である。小学生だった自分に関心があるアメリカのディスティネーションと言えば、ディズニー以外になかった。そればかりかディズニーさえあればそこがカリフォルニアである必然性すらもなく、「カリフォルニア」とか「カリフォルニア州」の意識は微塵もなかった(と思う)。ディズニーランドの実際のロケーションはオレンジ・カウンティであり、アナハイム(シティ)なのだが、「アメリカ=西海岸=ロスアンジェルス=ディズニーランド」。飛行機のディスティネーションがそのまま自分のディスティネーションのイメージを代替したから「ロスアンジェルスのディズニーランドに行ってくる」。

その後、「カリフォルニア」には実はなにもない、ディスティネーションなどでないということが分かりかけたのはそのロスアンジェルスの大学院に留学した時。まずは東京ディズニーランドが出来て、わざわざ「ロスアンジェルスのディズニーランド」という方程式が消滅した。さらに留学生として生活してみると、買い物ひとつするにもあれだけ広いアーバンエリアが広がって、ショッピングセンターだっていくつもあるのに、自分が欲しいもの(主に生活の便利品)を売っているここぞと言える場所がないことに気づく。ごく稀に降る雨を防ぐための雨傘を満足に売っている場所すら1年かかっても見つけられなかったくらい。手に入るような気の利いた文房具(ただし実用品)を(当時としては)集めた東急ハンズやロフトのような場所すらなかった。バラバラとならあるんだ。バラバラと。ところがそれらを集積した場所はなくて、一通りを見て回ってから決めよう、なんてと思ったら車を使ってロスアンジェルスじゅうを駆けめぐらなければならない。日本ならば渋谷に出れば何でも揃う、と思っていた時代。バブルを経て百貨店が最盛期を迎えた時期。消費型社会の人間としての自分から見るとなおのこと、「なんでみんなこんな不便で何もないカリフォルニアに旅行に来るんだろう?」という気持ちに変わった。なかでもロスアンジェルスに至っては消費型社会の代わりになるような自然が溢れるわけでもないし。アメリカに対する羨望とかが一気に消え失せていった頃。ボードリヤールが「シミュラークルとシミュレーション」でロスアンジェルスを実在のない消費社会の象徴と位置づけた頃である。その後、仕事上でつきあいのあった現地の弁護士が「ロスアンジェルスではみんな仕事をしていない。ただ車でフリーウェイを走っているだけだ」と揶揄していたのも懐かしい。都市はあるんだが、なにもない。車は走っているんだが何処に向かって走っているのかも分からない。モノは売ってるんだが欲しいモノはない。

こうしてカリフォルニアが旅のディスティネーションになることなどまるで想像できなくなっていたのだった。

さて、今回。

自分が仕事でベイエリアに出入りしてた頃、パートナーの角元弥子にパロ・アルトのインド料理屋の話をよくしていた。「あそこのビンダルーカレーは他で食べたことがない」。いつか一緒に食べに行く?(笑)。みたいな冗談で。

こともあろうに冗談から芽が出て、それを実現することになった。

わざわざカレー食べに。ええ、少々無理矢理なディスティネーション化に成功(笑)。

そして一度ディスティネーションとして定めてしまうと、実はいままで見つけていなかったディスティネーションネタがいくらでも見つかることに気づいた。素晴らしきかなインターネットとグーグル検索。あとクチコミサイトのYelp。しかしもはや消費社会としてアメリカに学ぶものはない、と思っているので見つかったディスティネーションはことごとくモノ消費と関係ない。「コト」づくめ。

まずは「パシフィックハイウェー」。「ルート1」と呼ばれるカリフォルニアの太平洋岸をひたすらに北上するステートハイウェイ。内陸部にインターステートやフリーウェイが整備されるまではここが開拓時代からの主要な移動路だったのだよ、と思わせるような海沿いの道。これをサンタクルーズからサンフランシスコまでひたすら北上する。カリフォルニア、が荒海太平洋に向かった自然の厳しい土地だったことが分かる。
 
実は「ルート1」、「ロスアンジェルスのディズニーランド」へ出かけたあとに、親のビジネスパートナーが運転するキャデラックに家族で乗せて貰って、ロスアンジェルスからサンフランシスコまでを延々と何にもかけて走った道だった(親の記憶によればサンタクルーズの南、モントレーまでを太平洋沿いに進んだらしい)。丁度そのときに走っていなかった部分、サンタクルーズからサンフランシスコまで、をいまの生活のパートナーと一緒に走る。大昔の記憶をフラッシュバックさせながら。街はさることながらそれ以外はあまり昔と変わらないのだろうな、などと思いながら。実際、太平洋に向かって切り立つ断崖絶壁、地殻からスコッーン!!と立ち上がってきたようなその断面はきっと何百年も何千年もそのままの姿なのだろう。
 
さらにそのパシフィックハイウェー沿いの「アノ・ヌエボ・ステートパーク」で象アザラシが繁殖のために海から上がってきているのをガイド付きツアーに参加して見る。あいにくの暴風の中(砂嵐と言ってよかった)、砂浜まで延々と歩く。これ、もう忘れられない。自分たちでNHKの「ダーウィンが来た!」の取材班なみかと思われる極限状態を実体験。その挙げ句、出会ったあちらのオスは3トン。こちらはたった50キロ超。人間が地球の主だなんて、通用しないんだぞ。ステートパークのガイドには「25フィート以内には近づくな。向こうは3秒で接近してくる。」と警告されながら。軽く200匹もいると茂みの中に隠れているやつらもいたりでうっかりやられるところでしたぜ。

ナパヴァレーのワイナリーは酒飲みのパートナーには外せないディスティネーション。子供の時に連れられていってもさっぱりと価値がなかったワインも、自分では殆ど飲めやしないワインでも、酒飲みのパートナーと一緒ならテイスティングにも参加でき、自分は飲まなくても1日の予定で無理なく回れる範囲のワイナリーを複数ディスティネーションに出来る。別にワインを(ワイナリーの正札で)買うことを目的にする必要もない。買ったけどw

夜はサンフランシスコでは数少ないエンターテイメントでミュージカル。本来ミュージカルと言えば、ニューヨークのブロードウェイ、なのだろうが、今回観劇した「Wicked」はそもそもがサンフランシスコで上演を始めたプログラム。それがニューヨークブロードウェイやシカゴでの成功も受けての凱旋公演ということで、サンフランシスコでこそ見る価値があり。劇場はサンフランシスコが1929年の経済大恐慌前に最後の栄華を競った頃の歴史遺産、Orpheum Theatre

他にもゴールデンゲートの、日頃観光客だと上がってこない後ろの山の、上から橋とサンフランシスコ市街を一気に見下ろす展望台とか、ツインピークスのてっぺんでぼけ〜っと日没を眺めるとか。パートナーはサンフランシスコ初めての観光客状態だったから、自分だったらもう乗らないだろうな、と思っていたケーブルカーも、ちゃんとぶら下がり乗車してきた。運転手も車掌も中国系移民青年たちにすり替わっていたけど。

ふうむ。ディスティネーションになるぢゃないか。なっていなかったのは自らディスティネーション化する努力をしてこなかったことと、盛り上がりで何でも楽しもうとする気持ちが足りなかっただけなのかも?もうなんにもないや、と思っていたカリフォルニアでももう一回くらい行ってもなんとなくディスティネーションなるものは設定できそうだよ?

そう、ここまで考えて、思いついたことがある。

なんか客のディスティネーションで無くなって久しい百貨店の話に似てない?

どんな小さいきっかけでもそこから始まる楽しみがある、ということを百貨店が示せてないのかも。と。そして向かう客も向かわない客も、もう探すことすら期待することすら諦めてしまっていて。

自分がディスティネーション化を怠っていたカリフォルニアと、客がディスティネーションとして見なさなくなった日本の百貨店をだぶらせながら、そんなことを考え始めた。

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2009年05月09日

新型インフルエンザとセンサークラウド

新型インフルエンザ(豚由来の新型A型インフルエンザ)が感染国のカナダから北米経由で帰国中の高校生から発見された。

しかし感染が判明したのは搭乗していた飛行機が成田に到着して、一通り機内の乗客が飛行機から降りたあとのこと。発熱していたこの高校生と風邪の症状を示していた同級生それに教員、さらにその周囲に座っていた乗客や乗員を検疫法に基づく行政措置で留めてはいたものの、ほかの乗客は検疫通過済み、ということになって停留措置(いわゆる隔離措置)は執られず。報道ではこれを「すり抜け」と評しているようだ。

はて、これこのノースウェスト便から誰かが「高校生の団体に発熱者複数名、症状も怪しい」などとTwitterでTwitしていたらどうだったやら(機内無線LANいるよね、とかの前提はすべてクリアしたとの前提で)。

そのTwitを誰かが見つけて、しかるべき場所に通報できたかも。現場の検疫官もそういう事前情報があれば対応フェーズを格上げしてあらかじめ乗客全員を隔離する準備をとるなど、より厳格な対応をとることが可能であったかもしれない。

成田などの空港、港湾で現在とられている検疫措置はまあいわばインターネットから大量に降り注いでくるワームやスパムを手仕事のフィルタリングで受動的に防ごうとしているようなもの。大変な(人的)資源を消費して、それでも現場での検疫法の運用限界や瞬時に結果が判明しない検査方法の限界で効率的なフィルタリングとは言えない。

受動的フィルタリングを代替するとはいわないが、一方でより効率的なメカニズムがセンサーからあがってくる情報を能動的に読み解く仕組み。

この両方が相乗すれば、より効率的に「アブノーマリティ」を発見することができる。

火の見やぐらだけで火災は発見できないけど、119番通報というTwitがあるから火災被害は最小に留められているのと同じ発想(誤報もいたずらも計算に入れても)。

このセンサークラウドとしてのTwitterの価値をわかっている人たちこそがTwitterにお熱をあげて水面下での動きを始めているわけだ。

まあ日本の行政がTwitterをセンサークラウドにするような時代は100年早いような気もするが。
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2009年05月04日

センサークラウド、センサーデータネットワーク、センサーネット。。。

センサークラウド、ヘテロジニアスなセンサーネットワークをサーバークラウドに接続しようとする試みを紹介。

ビジネスモデルなどはやっている本人たちもやはりわからないような。

でもまだまだ沢山でてくるでしょうね。

Pachube is not just a social networking project for sensor data.

Pachube lets you tag and share real time sensor data from objects, devices, buildings and environments both physical and virtual.

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2009年04月05日

センサークラウド、開始。

独立系ソフトウェアベンダー大手ジャストシステムが産業用センサーの最大手キーエンスによって買収されることになった。持ち株比率は43%超程度とはいえ、株主総会における拒否権も持ち、筆頭株主となって、企業会計上は持ち分適用会社扱いになり、実質上のオーナーである。

一方で、Googleはマイクロメッセージング、マイクロブロギングの先端を走るTwitterを買収しようとしている(*)。ウワサの段階だが、交渉で言及されている買収価格(あるいは評価価額)は10億ドルに達するらしい。随分安いな、と思ってしまう自分であるが。

この二つの動きは実は同じベクトルに向かっているのが解るだろうか。

「センサークラウド」である。

サーバーサイドのクラウドコンピューティングから、次はクライアントサイド、それもいままでのクライアントという範疇を通り越して、さらにさらに粒度が小さいセンサーレベルのクラウドコンピューティング時代が始まろうとしている。

サーバーサイドの「クラウドコンピューティング」をマーケティングバズワードにする様々な試みが2008年の金融危機勃発までは行われていた。この動き自体は少なくともマーケティング活動上は企業向けIT需要が減衰した今の状況下において、大きく採り上げられることが少なくなったが、「クラウドコンピューティング」という趨勢のベクトルは、Googleを遡るYahoo!なる検索大手が世の中に登場したときから、またAmazonという通販大手がインターネット上に登場してその後Amazon AWSでコンピューティング資源をネット上で提供するようになってから、いやその遙か前の時代にTCP/IPがARPAネットで交わされるようになって以来ずっと、Sun Microsystemsの創設者曰く「The Network is the Computer」としてひたすらに進んできた。サーバーサイドのクラウド化は少なくとも止められないし、停まることもない。ブロードバンド技術の浸透によって、クラウド化、コンピューティング資源のネット空間への移行、移譲は今後も進み続けるだろう。

で、では、クライアント側はどうだろうか。クライアント側、それもクライアント側PC端末とかローカルネットワークとか、モバイルPCとか WiMaxとかその粒度で関心に上がっているものはまだいい。これらは放っておいても企業、個人が進めるだろう。しかし、これらよりも更に小さい、クライアント(端末)の中でも最小粒度となるセンサーはどうだろうか。

ここがいまは最大の真空域である。データを生み出す「センサー」にこそ、ネット空間に接続される価値があるというのに。ネット空間から利用できるようになる潜在価値が埋もれているというのに。

GoogleがTwitterを買収する動機の一つが、彼らが集めまくっているネット空間上のテキストデータを考えた場合に、それが発生する場所としてマイクロブロギングがある、という考えだ。個々のTwitterユーザーが政府の行動について、有名人の発言について、テレビドラマのストーリーについて、スポーツ試合の結果について、地震大事故発生について、企業戦略について、商品について、さまざまなつぶやき、つまり「コメント」「速報」「ウワサ」、そして「リーク」を述べあっている。この微細な、ネット空間から見れば「センサー」とも言えるTwitterユーザーが捉える「微動」、まさしく「マイクロログ」が政府・政治にとって、企業にとって、一般大衆のマスな行動にとって、個人の意志判断にとって、今後大きな経済的、政治的、あらゆる価値を持っていく、持たせることが出来る、という信念だ。その意味でTwitterとはネット空間にばらまかれた「センサークラウド」なのである。

「センサークラウド」はこれからの「The Network is the Computer」を考える上でとても重要な概念になる。GoogleがTwitterを買収する動機も、テキストデータの「センサークラウド」を獲得しようとしているところにある。

この「マイクロログ」をセンサークラウドから集めることをテキストデータだけではなく、数値データにまで範囲を広げたらどうなるか。IPv6によって、個別のクライアント端末、クライアント制御機器というレベルではなく、さらにその末端につながる周辺機器、センサーというレベルの端末までがネット空間に直接接続できる、接続されるようになるという時代、これを考えることは無意味ではない。

産業用センサーはいままで閉じたシステムの中にあって、システムの仕様にもとづいて、そのシステムが必要とするデータを集めるだけのために取り付けられてきた。ところがこのセンサーデータは決して固定化されたシステムの中に閉じている必要性はかならずしもない。例えば、昨今では気象データはさまざまなセンサークラウドから提供されているデータをネット空間で一般ユーザーであっても広く利用することが出来る。気象・雷雲レーダーの画像、降雨センサー、風向風量センサーのデータ、河川水位測定センサーのリアルデータ。こういったものが日本でも気象庁や国土交通省、東京電力のサイトから利用できるようになっている。

更にはいまだライブデータではないがGoogleの悪名高き「ストリートビュー」は街の画像をネット上のどこからでも参照できるようになっている。現状ではセンサークラウドではなく、カメラを搭載したクローラーが走り回って街角の画像データを集めてきたようなカンジである。これもそのうち衛星画像を使って (Googleは独自に民間衛星会社と衛星の利用契約を締結)、あるいは(プライバシー問題は常にこのシステムにはつきまとうが)街角の監視カメラと接続されたりもしてライブデータが取れるようになるかもしれない。

これらのセンサークラウドが集めたデータはそのセンサーを取り付けた(走り回させた)主体の想定を越えるところで利用価値が生まれている。例えば「ストリートビュー」は東京近郊の不動産仲介業のオペレーションモデルを大きく変えてしまった。もはや仲介物件の外観下見は仲介業者も物件を賃貸する契約予定者も事前にストリートビューで確認ずみなのである。周辺環境や外見でハズレの物件はフィルタリング済み、つまりいままで行われていた仲介業者や契約予定者が現地に出向いて行うことになっていた物件下見の半分以上は現地に出かけることもなく完了なのである。これによって契約希望者の手間は大幅に削減され、仲介業者が1日に処理できる案件の件数は膨大に増加できるようになった。

気象レーダー、センサーのデータも昔は行政の「関係者」(それも多くは事態に直面している肝心の関係者ではなく、どうでもいい別部署の設備担当者だったり)のみが知ることが出来た。しかしいまは例えば雷雲のデーターを直接リアルタイムでネットで誰でも確認できる。自分の話になるが、ここ数年土砂降りの雷雨に遭ったことなどない。雷雲の分布を予めネットで確認して事前にその発生時間帯には行動を変更するからである。防災面からもこれらのデータは行政関係者だけではなく、地域防災担当者、一般市民に広く利用されるようになれば、計り知れない人的生命、財産価値を守ることに貢献していくだろう。

このようにして、センサーが集めたデータを広くネット上で利用できるようにし、そのデータをアクセス可能な形にするためインターフェースを構築していけば、新しい情報価値がいくらでも生み出せる。

企業がもつ内部に閉じたシステムのセンサーとて、同様である。企業機密などのセキュリティの問題がある故、インターネット上に広く、というワケにはいかないだろうが、企業内プライベートクラウドを構成する複数のシステムから共有してアクセスできるセンサークラウドのデータがあれば、設備投資効率と運用効率は著しく向上する。なにしろいまはシステムにひとつずつセンサーを専用、独立で冗長に取り付けまくって連動すらしてこなかったのだから。それがなにをもたらすかは、某国のミサイル監視システム大誤報事件でも明らかな通り(笑)。その一方で日本最大のプライベートセンサークラウドを作り上げたセコムがセキュリティサービスの提供でどれだけのバリューを生み出したかも。

さらに大きな風呂敷を広げるならば、昨今の関心であるCO2削減や資源の有効利用にも確実に貢献するだろう。センサークラウドから得られたデータを基にスマートグリッドを駆使して都市全体の最適化を目指すことだって出来る。スマートグリッドそのものではないが、すでにIBMはストックホルムでCO2排出を削減する都市最適化プロジェクトに成功している。

GoogleのData Setという動きをご存じだろうか。ネット上であらゆる情報を集めると宣言しているGoogleが、今度は公共で公開されている統計データや生データをデータベース化して、それをネット上のどこからでもコンピューティングリソースとして利用できるようにするというものである。この動きは実はまだ初動的なものであって、次はData Setへの直接なインプット、それも望ましくはリアルタイムでのインプットとなる「センサークラウド」が必要になる。人が集めたデータを偶発的に事後的に蒐集(収集)=ボットでクロールしているだけでは足りなくなるのが明らかだからだ。

Twitterなるテキストデータのセンサークラウドを買収するのもまさしくこれが動機だ。

そしてGoogleにとっての次はテキストデータ以外の、データベースに抱えられるデータとしてはテキストデータを遙かに超える容量と多彩さを持つ、センサーデータがセンサークラウドのターゲットに入る。

ただしセンサーデータは数値そのままでは解る人にしか解らない。いやむしろ解る人であってもセンサーデータが膨大に存在しているだけでは手に負えない。何らかの形でセンサーデータを咀嚼する処理アルゴリズムが必要になる。つまり数値データであってもテキストデータであってもセンサークラウドから上がってきた生のデータに対して、何らかのセマンティクスやタギングを付けていかなければならない。

さあ、そのカギを握る技術を持つのは誰になるのだろう。

センサー会社がセマンティクス、タギングに延々と取り組んできた会社を買収した。

「センサークラウド」が始まった。

Yahoo!やGoogleが、あるいはCiscoがセンサークラウド用スマートセンサーの開発企業を買収する時代はくるだろうか?

  *4/6追記。GoogleによるTwitter買収観測については、とりあえずTwitter側から否定の公式発表あり。

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2006年04月19日

■再び「1年ぶりのイタリア」■

ブログを書いてパブリックにダイアリーを露出することがあまり(読む人の)役に立たないと思っている自分なので、ほぼ毎日ブログや日記を書くという真面目さには無縁。

でも今回のイタリア旅行のことだけは書いておこうと思う。

というか、前にも「1年ぶりのイタリア」というエントリーで書いているのだっけか。

今回のイタリア旅行は主目的地がヴェネト州のパドヴァ。旅程上経由することになっていたパリに帰りに2泊したけども、それ以外は「一体そこにやることがそれだけあるの??」と思われそうな小都市に1週間滞在。そうそう旅行者として、しかもツアー客として旅行するならパドヴァみたいなところは昼間のうちにヴェニスへ向かう途中に立ち寄る程度で済ませてしまう場所なのだよ。。。だからこそ、パドヴァにしてみたわけだが。

2年前に同じヴェネト州のヴェローナに8日ほど滞在したときも、滞在したホテルのフロントにいるイタリア人ですら「1週間も?」と驚かれてしまった。パドヴァもご当地の人たちはほぼ同じような意識のようで、とにかくまずホテルの数が少ない。ビジネスがないわけではなく、いやむしろイタリアの州の中ではもっとも平均所得が高いという統計がでているほどの場所だからビジネス需要は十分にありそうなものなのだが、街でホテルをみかけることは本当に稀。自分たちのホテルと駅に向かう道の途中にもうひとつと、オートストラーダの入り口近くにシェラトンのチェーンだからこそちょっと大きめなヤツと、あとはどこかあったかなあ?といった程度。西に隣するヴィチェンツァもこのパドヴァも大きな商業展示施設を持ちながら、こんな調子で商売欲がない。

パドヴァの欲のなさはヴェローナよりも更に磨きをかけていて、宗教的にはローマカトリックでは重要な位置づけにある聖アントニオの遺骸を祀る通称イル・サント、聖アントニウス教会がありながら、街全体にはそのムードがない。教会のまわりに路上土産屋がたむろっているくらい。街の商店にはアントニウスにちなんだみやげ商品などは殆どみかけない。

旅行客を引きつけるのにどの土地も取り組む「名物料理」「名物みやげ」みたいなものもない。ヴェローナでは「アマローネ」と「馬肉のアマローネ煮込み」など地元を代表する有力なMDがあって、しかも単価的にも商業価値が高いものをもっているのだが、同じヴェネト州でありながら、パドヴァにはそういったパドヴァならではのMDがない。せいぜい歴史上最古のカフェとか、ジオットが描いたフレスコが厳重に管理される礼拝堂とか、である。しかもジオットの礼拝堂は保存管理のために完全予約制。いきなりふらっと通りかかったヴェニスへの通過客、みたいなミーハー旅行者は見事にブロックされる。とにかくとにかく「自分たちの街」であり、「普段着の街」であり、商売的な意味での下品な色気を見せないのである。ヴェローナがありもしない「ロミオとジュリエットのバルコニー」をでっちあげたのとは随分違う。

だからと言って、つまらない街では決してなかった。コンパクトにまとめられた中心部は歩いて街全体の雰囲気を感じるのには最適であったし、結局最後まで手に入れられなかったどころか一度として掲示されているのすら見つからなかった市内路線バスの経路図がなくても、なんとなく街の中の動線は掴めた。どこに人が集まり、どういう時間の過ごし方をしているかを見届けるには最適なサイズとスピードで人が生活している雰囲気だった。おそらく、いままで訪ねてきたイタリアの都市の中では一番住んでみたい場所かも知れない。

住んでいる人のセンスも良かった。大学の街ということで若者の比率が高いこともあるだろうが、トリノのように「どうみてもダサイ」服装のイタリア人はほとんど見かけない。まだコートを着ている人が多い天気だっけど、トリノでは散々歩き回っていたキルティングの袖無しダウンとかまず見ない。また、どのイタリアの街でもみかけるように、バールが沢山あるのだが、「どう見てもカッコイイ」バール、というかカフェと言った方がいいかもしれない、を狙っているバールが多い。こうなると普通にエスプレッソを1杯ひっかけだけに入るおじさんだって、おばさんだって、カッコよくならざるを得ないのではないかな!と思うほどである。

街の精神的な成熟度が高かった、とでも言えばいいのだろうか。

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2005年11月16日

SPA

「SPA」という略語/単語はそこら中で使われていて、まるでスポーツ関連組織の略称か、女性に流行のスパか、あるいは写真週刊誌か、と見紛うばかり。



でも、今回ここでSPAが示すのはいわゆる製販連携とか製造小売業と言われている業態のカテゴリ。作りつつ売る、みたいな。



考えてみると昔はいろんな小売業態でSPAが当たり前だった。作ってるところが売る。町の商店街のパン屋でも和菓子屋でも。規模が小さかったので今のSPAのように情報システムというインフラが無くても製造小売業はほとんど自動的に実現できた。



自動車だってSPA。今も昔もSPA。イタリアに自動車メーカーというよりは馬車の製作工房に毛が生えた程度の自動車メーカーが乱立していた頃、作ってる場所が売ってる場所だった。総生産台数が100台ちょっとの自動車メーカーとかがあったり。



いま自動車メーカーはその事業を全世界に広げているけれども、販売チャネルを複数持っていたり、その中で販売会社は別会社化、代理店化されていたりするけれども、本質はSPA。世界規模でのSPAを実現するために部品のサプライチェーンから在庫管理、整備情報まで巨大な情報システムをインフラに持っている。TOYOTAが日本での販売会社だったトヨタ販売を再度合併して製販連携を高めることにしたのも、自動車メーカーがいかにSPAであるかを物語っている。



一般消費財がSPAからどんどん離れていったのは勿論流通網の発達によるところが大きい。特にGMSなどの大規模小売業が製販の中で小売りの部分だけに特化した業態として芽生えたことに加えて、そのような小売りチャネルの複雑化、高度化を製販連携の中で実現出来ないというシステムの(当時の)限界、そして店舗規模や取り扱い点数が大きくなりすぎたことによる人間的、構造的な限界が大きかった。



この小売りチャネルの高度化の中で沢山の町のパン屋や和菓子屋さんが消滅していったわけだけど、その小売業界が今はSPAだ、SPAだと騒ぎまくる。自分たちとの競合で消えていった業態こそが正しい方向と。



日本で大規模小売業の先駆けという歴史的にも非常に重要な役割を果たしたものの、今は負け組の代表にされてしまったダイエーだって、創業者の中内功氏は日本のGMSがSPAに変化していく必要性を強く説いていた。まあ、GMS自体がサプライチェーンまで中に取り込むの?そこまで肥大化するの?という当然の疑問の中に社内ですら合意できない方向性のズレが生じてしまったようだけど。結局、協力メーカーへのOEMという形でのプライベートブランドというところで落ち着いていたようだった。



ところが、時代はますます「小売業ですらSPA」に向かっている。GMSやSMで売られるナショナルブランド(NB)の全くもってしてSPAではないパン(自分はこういうのを「工業用パン」と呼ぶ)に対して、今はセブン・イレブンで毎日3回工場から配送されるパンが売れていたり、あるいは店内で冷凍生地から焼き上げるパンを売っているアンデルセンのようなパン屋が流行っていたりする。あるいは粉から店内でこねるようなまさにブティックと言える手作りパン屋とか。



コンビニには巨大な情報システムがあって、それが製販連携を実現しているけど、ブティックには売上管理のPOS程度しかない。製造小売業だからと言ってそこに高度な情報システムが必須というわけではないようだ。 SPAと言えば情報インフラありき、みたいなのが主流の議論になっているけど、それは違うと思う。確かに情報システムは販売や市場からの情報を適切に製造に伝え、また製造された製品を適正に在庫管理するための資質を与える。大規模なチェーンストアをSPAで展開しようとしたら、どうしても情報システムは必要になる。だが、それが製造小売業の本質なのだろうか?「ものづくり」という観点からもっと歴史を振り返って「SPA=製造小売業」を見てみるべきでないのだろうか?



ユニクロの柳井氏は「自分たちは第三世代のSPAを目指す」と言っている。氏は「GAPが第二世代とすれば、自分たちはそれに更にトレンドや情報発信を加えて次の世代を目指す」と言う。ここでのSPAは「情報システムありきの」SPAではなくて、どうやら「ものづくり」のことを言っているらしい。では氏にとって、第一世代はなんなのかと思ったらそれはウォルマートだったり。こちらは情報システム重武装型のSPA代表格だが、「ものづくり」では「工業用」食料品、衣料が溢れる世界だ(笑)。GAPはたしかにそこにファッション性が加わっているからまだ「民生用」なのだろうか。そしてユニクロは「ベーシック」というベーストレンドを抑えることでここまでビジネスを伸ばしてきた。だから彼らは第一世代のような「工業用衣料」を作っているわけではない、第二世代の「ファッション性」をもリードする「トレンド」も加えた第三世代と言いたいのらしい。



フランスの高級ブランド「HERMES」は自分たちを「ブランド」と言わずに「メゾン」と言っている。その製品は職人を揃えた製造工場から高級感を醸し出す店舗での販売まで、全て自社のネットワークで流れる。世界市場に展開しているので流通網は勿論世界規模だ。しかもその製品は決してベーシックでもなく、単なるトレンドでもない。重鎮なコアの客層と長大な歴史を中心に、そこに多くのミーハーな市場セグメントを巻き込んで「憧れ」とまで言わせる。まさに「ブランド」の骨髄を伴っている。だが彼らの本質は街のパン屋や和菓子屋のような昔ながらの製造小売業なのである。



この「メゾン」である「HERMES」は、柳井氏の「SPA世代」の定義を援用すれば、ユニクロの「第三世代SPA」を通り越して、ベーシックを越え、トレンドすらも越え、歴史にもなりトレンドセッターにもなって、とっくに「第四世代SPA」になっているように感じる。



なのにどうだろう?世代が進むにつれ、まず始めに「ものづくり」がしっかりと存立していることが前提となり、昔ながらの工房に近くなっていく。だから「HERMES」は自分たちを「ブランド」と言わずに「メゾン」と名乗る。



情報システムをインフラとして議論するのも大切だが、なによりも「ものづくり」のセンスとクォリティがしっかりしていること。SPAをやるならばまずそこを突き詰めなければならない。



もし仮に第五世代SPAというものがあるのなら、それは実は第「0」世代のSPA、つまり昔のイタリアに乱立した自動車工房のように手作りで自動車を一台一台作り上げる工房とそこに出入りするごく少数の得意客、つまり一見閉鎖的にも感じる「サロン」のようなものになっていくのではないだろうか。銀座と六本木ヒルズに店を構えるジュエラー「AKIO MORI」を見て、そんなことを思った。ここは「メゾン」すらも越えている「サロン」なのだ。続きを読む
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2005年08月10日

主権者のマーケット

テクノロジー、コーポレート、コンシューマーとマーケティングを練ってきたけれども、自分にとって一番興味が尽きないのはコンシューマーマーケット。



生きている人間を相手にするから、という点ではテクノロジーだって、コーポレートだって中の人は生きている人間なのだから同じ筈。だけど、生きている人間の、しかもこのダイナミックな今の文化環境、生活環境の変化の中で本当に人間の生きるサマと直面するにはコンシューマーマーケットが一番だろう。



テクノロジーをやっていた頃に感じたのは、あまりに"Cliche"と"Buzzword"、それに"Bullshit"が多いことだった。これらに固められた「煽りマーケティング」で、兎にも角にもビジネスシーズを作りだそうとテクノロジーをマーケティングしているのがアリアリだった。更に自分にとって最大の幻滅であったのは、そのようなトレンドセッターが、世界でもっとも生活者感覚が遅れていると自分が思っている某超大国のプレイヤー。これが退屈さに輪をかけた。やっていることを見ても単純で平坦で、味気ない。



コーポレートもあまり大差はない。彼らにとっては大きな流れに乗っていることが大事で、中の人のひとりひとりの感覚が最大限発揮されるようなことは多くない。まして昨今のコーポレートな環境は会計原則であれ、株主重視のガバナンスであれ、コミュニケーション&リレーションであれ、あまりに流儀に基づきすぎている。グローバルスタンダードという妄想に釣られて、世界の文明文化から見れば200年前と同じで辺境としか思えない土地のダブルスタンダードに翻弄されているのも問題。そんなコーポレートマーケットだから、「自分たちにとって本当に大切なものは何か?」という根本の欲求ですら、自分たちで明確に意識できていない。



いや、「自分たち」と言っている時の「自分」が個人としての「自分自身」ではなくてあくまで属する法人格、組織、団体を指しているのだから、本当の「自分」にとっては実はどうでもいいことなのかも知れない。こういう個人としての「自分」が自分で距離を持ってしまっているようなところに何を撃っても、響いているのか響いていないのか、操作が簡単な一方でろくな反応も見ることが出来ない。仮に反応があってもこちらのメッセージを聞いて、信じてくれていると言うよりは、むしろ信じているフリをしているだけっぽい。それでも数字は出るところで出るのだから、信じられていないのに成果が出るすごくイヤな感じに包まれる。



コンシューマーはその点、「自分」との距離を置くどころかますます本音と本心の「自分」に近づきつつある。彼らはアクティブで元気だしワイルドだ。昨今、例の法案採決から国政選挙が行われることになったわけだが、その主権者たるコンシューマーを相手にしていると、さすがこの民主主義国家の主権者だ、と思わず手を打ちたくなることがある。ある意味自己中心的でナルシスズム。ある意味とても社会的で社会主義的。そのクセ、スペックやクォリティに関しては企業が想定する以上に厳しく冷淡。だからブランドモノを消費するだけではなくてブランドそのものも消費してしまう。自分たちが世界の中心だと意識して考える程の独善性は無いけれども、自分たちが中心のライフスタイルをきちんと構築する。そういう生き方、考え方が結果的には社会や国家の趨勢を決めることも実は知っていながら。



考えてみれば、テクノロジーもコーポーレートも中の人はこの国の主権者であるのに、テクノロジーやコーポーレート自体は人格を持たない法人格が相手。ひとりひとりが人格を持った国家の主権者を相手にしているのとは訳が違う皮を被った何かが(沢山)あるのだろうね。



主権者は、この国の未来を決める。良い方向であれ、悪い方向であれ、将来の方向を決める。それは選挙ばかりではなく、国内消費市場にとっても真であると思う。国内市場の主権者はコンシューマーなのである。どのようなブローカーがいようと、どのようなアジテーターがいようと、最終的に市場の流れを決めるのは主権者たるコンシューマー。そしてそのコンシューマーは感覚を研ぎ澄ませてどんどん高度化していく。だからそこに向かって突撃していくコンシューマーマーケティングは大変で面白くてやめられない。



ところで、話に出てきた辺境の地(笑)の某国大統領やその夫人。あるいはその国でよく名前が出てくる有名経営者や政治家。その服装を見てどう思う?あまりにダサくない??あの程度の生活感覚しか持ち得ない人たちが物事決めたら、どうなるか。深く幅広い文化の裏付けがないところでは生活文化の多彩性が欠如する。だから適正な価値観のバランスが生活の中に存在しない。それゆえ、適正なジャッジメントも存在できない。採用面接にああいう人たちが出てきたら、自分なら「センス悪すぎで信じられない」と一発で不合格にする(笑)。続きを読む
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2005年07月07日

10年

パートナーである角元弥子とつきあい始めてから今年で10年。



一緒に住んで6年以上になるというのに「つきあう」という言い方が正しいのかどうか。



まあ、でも向こう様にはよくここまでつきあっていただけたものだと自戒と感謝を込めて言っておこう。



「スィート10」ではないけれど、10周年記念にはなにか贈った方がよいのかしら?と考えていると、角元がブランド・ディレクターを務めるヴェレッタ・オッターヴァ(Veretta 8va)が新しいエメラルド・カットのダイアモンドリングを発売したとか。しっかり宣伝された。。。。そればかりか希望アイテムまで!!!



ダメ。。。1カラットのダイヤなんか付けて道歩けないから。。。。(かなり苦しい(笑))。





ジュエリー業界はプラチナにホワイトダイアモンド、(更にひどい時にはいまだに立て爪)で代表されるエンゲージリングやマリッジリングなどの婚礼需要に相変わらず依存していて、今でも機会需要の多くは「婚礼」だと思っている人が多い。マーケティング調査を一度はきちんとやってお勉強し直してくださいな。。。



「母から娘へ」とか「孫の代まで」と言った売り文句でダイアモンドのリングを売っている旧態依然の業界だから、そういう認識で通せるのかも知れない。



だが今や女性は早々には結婚をせず、結婚をしたからと言って離婚をし、「少子化社会」のキーワードで代表されるように平均1.3人にも満たない子供しか産まず、しかもそのほぼ半分は「娘」ではなくて「息子」である。こういう時代に「母から娘へ」「孫の代まで」のセリフでこれから先もジュエリーを売っていけるとでも思っているのだろうか?



女性、特に都市部のキャリア層に分類される女性のライフスタイルを考えれば、彼女らの「頭の中」にあるのは居もしない「娘」や「孫」の姿ではなく、今日の服、明日のお出かけにコーディネート出来るアイテムを探し求める「自分」の姿だ。そのライフスタイルが求めるジュエリーは「財産」としての空虚な威厳や品のない豪華さではなく、「トレンド」であり「ファッションパーツ」。いわば永遠にタンスの中にしまわれる「不良資産」ではなく、明日のお出かけに即利用できる、キャッシュのように使い勝手がいい「消費アイテム」である。



しかしその「消費アイテム」「ファッションパーツ」であっても決してチープで凡庸なものでは飽き足らない。今の「自分」を表現し、「自分への自信」を高めるランクアップアイテムでなければならない。「ゴージャス系」とか「セレブ系」と言われて高額の「消費アイテム」が次々と売れていくのはまさにこうした機会需要に根ざしている。一生に一回あるかどうかも判らない婚礼という機会需要よりも、こういった「日々是決戦」な毎日のコーディネーションこそ、ジュエリー市場が追いかけるべき機会需要。





御託を並べるのはこれくらいにしておいて、さて角元さん。今の「自分」を表現し、「自分」の魅力をランクアップする「実用品」として、ヴェレッタ・オッターヴァ(Veretta 8va)の新作リングが今の「あなた」に役立つというのなら、前向きに考えましょう(笑)。続きを読む
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2005年04月27日

1年ぶりのイタリア

奇しくも新しいローマ法王の選出儀式コンクラーベと時期が重なったローマ滞在。新しい法王選出の喜びを街中の教会の鐘が鳴る音で知るほど身近で感じられたのは滅多に得られない経験だった。



法王選出までの間、国営テレビRAI UNOの討論番組は前法王ジョバンニ・パウロ・セコンドの功績と新しい法王に求められる資質、この2つの話題で1ヶ月くらいは持ちそうな勢いだった。



テレビ番組でも新聞でも同じように取り上げられていたのは、「今やカトリック信者の数では最大のシェアを持つようになった南米(より具体的にはブラジル)から法王を選ぶのか?」という話題。多くの枢機卿もカトリック関係者とどこにでも現れそうなカトリック評論家も、この可能性を言及していた。南北アメリカ大陸の枢機卿20名ほどは南米からの法王選出について「統一した行動を取る」という合意もしていたようだ。



ブラジル音楽がRAIでよくかかるのも、イタリア人(特に青年層)がブラジルにお熱をあげるのも、ブラジルにイタリア系移民が100万人いるというのも、そしてイタリアにブラジル系移民がいるのも、ああ、そういうカトリックのつながりがあるのか、と納得。言われてみれば、宗教で生活感が共有できることは移民意欲を駆り立てるのにとても大切な筈。しかし宗教が生活にしみこんでいない自分にはなかなか気づかないことだった。



大都市東京から訪ねた人間にとって、イタリアの首都ローマは規模や人口では大きく異なるとはいえ、大きな町であることには変わりがなく、カトリック信者にとって有り難い教会やローマ文明の遺跡を取り除いて見てしまうと、なんとも面白みのない町だった。古い町並みを残す都市に共通していることであろうが、商業施設の整備不良状況は生活レベルに直接影響を与えているほどに悪く、物欲主義的に言えば、これがまた町の面白みを少なくしていた。



よく東京では「オーバーストア」という言い方で小売業の飽和状況を形容するが、ローマについて言えば、数的には明らかに「オーバーストア」なのだが、それぞれが零細で規模が小さく品揃えも悪いので「アンダーマーチャンダイズ」なのは間違いなかった。さらに「オーバーストア」とは言っても、それは店として店舗に収容しきれない小売り店がそこらじゅうの広場に「メルカト(市)」を出しているからであって、店舗を集積した商業施設面では明らかに「アンダーデベロップメント」。こんなユルユルの小売り市場で育っているヨーロッパのブランドとMDに、米国よりも激しい小売りでの競争と淘汰を繰り返している日本のブランドがなぜ負けるのか、何とも不思議な気がした。簡単に言えば、フランスのカルフールはボロボロに負けたのに、グッチもルイヴィトンもなぜ勝ちまくるのか?と言ったところ。続きを読む
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